齋藤先生への追悼の言葉

(各人の肩書は基本的に平成13年3月末当時のものです。)



斎藤豊文 先生 追悼スケッチ のページ

ホームページの「斉藤先生を悼む」の項の続編にしたいと思います。今あるのが、いわば公式のページとすれば、ここはもっとアットホームなページにしたいと思います。自由におもしろいコメントが寄せられるのを期待しています。
 なお、原則として、書いた人の名前も入れてください。できれば、これからの連絡先もつけておいて下さい。

以下は、いわば一つのサンプルとして入れます。そう思って、意識して硬軟両方の話題を入れたつもりです。もちろん、これに捕らわれる必要はありません。それから、これも今からまだ改訂する予定です。(鳥脇純一郎 2001年3月26日 記)
 

(1) 経過報告
 齋藤君、君が残していった仕事の経過を報告します。
(a)科研費特定領域 『発見科学』の最終年度の全体会議が、3月5,6日にあり、A04班の研究成果報告と総括班報告の二つとも私がして来ました。皆さん、齋藤君の発表はよく覚えていて、A04班代表者宮野先生は、いつもビデオプロジェクタ持参で非常に綺麗な絵を見せてくれました、と言う言葉と共に不幸な分担者交代の説明をしてくれました。残念ながら、私はOHPだけという超古典的なやり方での発表しましたが、幸い、君が残した総当たりプログラムは君が逝った後10日余りも勝手に?稼働して結果を出してくれていましたから、報告の材料は十分ありました。
(b)この実験結果を整理してくれたのは高松の濱田さんです。これをふまえて投稿していたIMPRESSの少数サンプルに対する振る舞いに関する論文は条件付き採録で、目下修正作業中です。多分何とか採録にまで持っていけるだろうと思っています。そうしたら、濱田さんには学位論文を書いて貰います。君が彼の研究所の共同研究員となって指導してくれたお陰です。
(c)番正くんと共に書いた3D細線化の論文が、つい一週間ほど前に採録決定となりました(電子情報通信学会論文誌D供法
補足 斉藤君が自分で執筆した最後の論文という点では、これが絶筆です。原稿をよく見ると、細かいミスが意外にありました。こんなことは私が見た斉藤先生の以前の原稿にはなかったことです。やっぱり疲れていたのかな、それとも非常に忙しかったのか、・・きっと両方ですね。今頃そんなことを言っていても仕方がないですが。
(d)斉藤君が代表研究者として実施した科研費(内視鏡手術シミュレーションシステムの操作手法および操作装置の開発に関する研究、基盤(B)(2))は、本当は2000年3月に終了した研究でしたが、成果報告書は事務に提出したものと私にくれたものしか作らなかったのですね。結果的に私が持っているのが唯一のものになっていたとは知りませんでした。この成果を無にするのは惜しいので、この程改めて印刷し直しました。これから、関係者に送ります。奇しくも印刷ができあがった今日(3月21日)、妹さんが荷物を引き取りに来られましたので、一冊持っていって貰いました。今頃見ているでしょうか・・。
(e)ゴール分割型IMPRESSは、熊川君に3月の電子情報通信学会パターン認識・理解研究会で発表して貰いました。君が指導した最後の修士研究になりましたが、予想以上に面白い線を行ったと思います。頑張って、なるべく早く論文にしましょう。
 さしあたり、主なものは以上です。でも、まだこれからいくつか君のやり残したことを片付けて論文にします。

1 研究室 
(1)研究(1)ー研究室の経理部長、用度部長であったこと
研究室の研究用備品、消耗品に関して、購入計画の立案、品物の調査、見積もり、発注、すべて齋藤君の独壇場でした。研究の遂行上、何を買えばよいか、今世の中に出ているもので一番適当なものは何か、を実に的確に把握し、コスト/パフォーマンスを最適にする物品を選んで購入し、実際に使えるようにするまで、彼の右に出るものはいませんでした。このことによって、研究室がどれくらい助けられていたか、ほとんどの人は知らなかったと思います。齋藤君がいなくなった11月以後、このことをいやと言うほど、思い知らされました。本当にこの2月、3月は研究計画の消化と報告作成で、教官から事務職員までなんと忙しかったことか。

(2)研究(2)ープリンタの購入
研究室で全紙大の大型のポスターを一挙にカラー印刷できるプリンターの購入を言い出したのは齋藤君です。研究室のある8号館北館3階の鳥脇研、末永研の廊下に掛けてあるあのポスターを作るものです。決して安くはありませんでしたから、通常は単独の研究室でこんなものを買おうというのはなかなか考えにくいことでしたが、彼の強いすすめで、OKを出しました。そのお陰で、研究室見学、各種学会の学術展示、ポスターセッションでの発表はひときわ精彩を放つことになりました。大抵の人はご存知無いと思いますが、これが私たちの研究室の成果を認めて貰うのにどれほど貢献したか、計り知れないものがあります。私も、これからは研究室のアッピールが重要になると考えたからこそ購入に踏み切りましたが、これほど効果があるとは予想しませんでした。とりわけ、コンピュータグラフィックス関係、仮想化内視鏡関係の研究発表には有効でした。ただし、大きいものですから、置き場には頭を痛めましたが、幸い、情報工学専攻の共同利用と言うことで専攻の計算機室の一角に置いて頂けることになりました。他の研究室の多くの人たちは、多分これが鳥脇研究室で買ったものだと言うことを知らないと思います。

(3)研究(3)ーポスターの作成
 上のプリンターで作成するポスター(もちろん内容は研究室の成果発表ですが)をデザインすることにかけても、齋藤君のセンスは抜群でした。いくらプリンタが良くても元々ポスターのデザインが出来なければ効果はありません。ポスターのデザインは、研究内容の的確な理解、何をどうアッピールするかの選択、そしてポスターのグラフィックデザイン、の各ステップが揃わなくてはできません。単に絵がうまいとか、内容がわかるだけでは駄目です。これらのどれに於いても、齋藤君は非常に優れた腕を発揮しました。それを見習って、院生の多くが自分の研究に関してなかなか良いポスターを作るようになりました。文部省科研費特定領域研究『発見科学』の研究集会でも彼のポスターとビデオプロジェクタによる美しい絵を使った発表は印象的で、つい先日(3月5,6日)の同全体会議で発表した(もちろん、これは私が代役でやりました)の時も他の大学の皆さんが齋藤君の発表のきれいだったことをよく覚えていてくれました。『それと比べて、昔ながらのOHPしか使わなかった先生(私のこと)の発表も、かえってよくわかりましたよ』と妙なほめかた?をしてくれた先生もおられて参りました。ある学会でベストポスター賞をとったのも当然でしょう。

(4)趣味(1)ー絵を見る
 齋藤君は、絵を見るのが案外好きでした。名古屋の美術館の特別展や海外の美術館にもよく行っていたようです。 私も見るのは好きで(面倒だから自分では書きませんが)、よく話をしました。最近齋藤君の持ち物を整理しところ、この特別展のカタログがおよそ10冊以上(ピカソ展、セザンヌ展、東山かいい展、ミレーとバルビゾンの画家たち展、などなど・・・)、美術館の画集10冊ほど(シャガール美術館、ミロ美術館、ピカソ美術館、などなど)それに、学研の大型本の日本美術全集全25巻が残されていました。全集は大半がまだ段ボール箱に入ったままで開いた形跡がありませんでしたから、きっと忙しくて見る暇もなくなってしまったのではなかったかと思います。

(5)趣味(2)ー歩く
 齋藤君は非常によく歩きました。私も割合よく歩き、しかも歩くのが速いとよく言われますが、彼も私より小柄なのに随分早く、長距離を疲れもみせずに淡々と歩きました。このことを知ったのは、ノルウェーの北端に近いトロムソという所へ一緒に国際会議で出かけたときです。このときは、私の方が初めは積極的に小雪の降る街を歩いたのですが、翌日からはもう二人で歩きまくりました。そうは行ってもそこは若さの差で、新しいところを少し私が試すと、すぐに同じ方面を私の何倍も歩いてくるので、とても叶わなかったことを覚えています。面白かったのは、学会の中のツアーで北の海に釣りにつれていってくれたとき。とにかく餌などつけずに大きな鉤針をいくつもつけた釣り糸(縄?)を投げ込むと鱈がいくらでも掛かると言う凄いところなのですが、大勢の参加者の中で彼だけが、『おおかみうを』とか『おひょう』と言う型破りのものをつり上げたのです。あとになって、告別式の時に実家の方で聞きますと、いわなか何か彼の専用の水槽に沢山飼ってあって帰省すると食べていたと言うことです。やっぱり、世界的に通用する何か特別の能力もあったのかも知れません。でも、こういうところへでも、ホテル内と同じワイシャツ、ネクタイ、スーツで行って、普通なら寒くて堪らないはずなのに、そんな顔もしてなかったから、やっぱり型破りでした。ついでに言えば、この国際会議(Scandinavian Conf. on Image Analysis)はわりあい面白いところでやります。昨年(2000年)はグリーンランドであったから、彼は勇んで行ってbanquetにアザラシの生肉を食べてきたそうです。私も行きたかったなあ・・。今年(2001年)はまたノルウェーでベルゲンです。彼は、もちろん絶対に行くつもりだった・・・。

(3)趣味(3)ー写真
 外国出張などの旅行に行くと、いつも一眼レフのカメラを担いでいって、非常に沢山写真を撮っていました。その数は非常なもので、一度行くと何百枚もとったのではないかと思います。それを全部スライドにして、これを人に見せるのも好きでした。夏には毎年研究室で合宿などに出かけましたが、宿で夜になるとこの写真(スライド)をみんなに見せるのが恒例でした。あとで、お聞きしたら、実家の方でもお父さんによく見せていたそうです。お父さんが途中で寝てしまうと、次の日にまた初めから見せるのだそうです。ちなみに、彼に言わせると、私の方が沢山撮るそうですが。そうかなあ・・。ともかく、バスに乗ってもいつもカメラを構えているのは彼と私だけだと自分で言ってました。もう一つ言えば、私は昔の手動カメラ育ちですから、当時も測光部以外は全手動の一眼レフを愛用していました。斉藤君のは全自動でしたから、手動カメラの使い方なら、私の方が上だったと思いますが、例によってカメラのメカの方もよく知っていました。何しろ、シャッターがおかしくなったと言ってカメラを開けて(解体して)直そうとしたのにはあきれました。だから、コンピュータのハードディスクを解体するくらいは朝飯前・・・。一つもらって、計算機と社会(情報4年生の講義)の教材に使っています。

(4)特技(1)ー工作 ものを作るのが好き、と言うか強い。プラモデルからVRのインタフェースまで。東急ハンズの大得意。立方体やら球やら、訳の分からないものが彼の机の上や戸棚にいっぱいあった。研究室に新しい戸棚でも入ると、彼は自分で全部組立て、耐震の留め金まで自分でつけてしまっていた。私が、そんなことは助教授がやらなくてもいいのにと言うと、「ええ、まあ、あと一本だけ(戸棚一つのこと)だから、・・ぶつくさ(あとは聞き取れなかった)」と言って、けろっとしていたものです。

(5)特技(2)ー動植物には強かった。キャンパスに桜が咲くとヒヨドリが花を食い散らすと言って憤慨していました。あれを無造作にヒヨドリと言えるのが、彼の特技たるところで、自然物を随分よく知っていたように思います。植物も結構よく知っていたようです。こういうことを言えるのは、休みに研究室に来ると彼しかいないのが普通で、そういうときに、こんな話をよくしたからです。 でも、彼は、クマゼミの実物を知らなかった、というのは意外でした。沖縄にいったとき(文部省科研費の研究集会です。念のため)、木の幹にいっぱい(本当に密集して)止まっていたのを私が一匹捕まえてきたら、熱心に観察していました。根尾村は寒いからほとんどいなかったらしいです。(余談:沖縄の蝉はおおらかです。私が育った知多半島ではこの蝉は勘が良くて、素手ではなかなか捕まらなかったのに。)

(*)総合評価 斉藤君は、頭が非常に良くて、天才的だったと思います。時にすごみさえ感じました。普段と変わりない、何気ない口調で、実は、非常によくわかっていないと言えないようなことをあっさりと言ってのけるから、かえって誰も気づかなかったのではないでしょうか。実は私もこのことに気づいたのはかなり後になってから、最近の数年のことです。特に発見科学の研究集会に出だした頃からよくわかってきました。もしかすると、厚生省がん研究班、形の科学会、難処理人工物研究センター、そして文部省科研費特定領域「発見科学」と、次々に異分野の研究者とおつきあいしている中で、次第に本来の能力、素質が発揮されてきたのかもしれません。頭の良さを最初に指摘されたのは、私の知る限り、杉江昇教授(元名大情報工学科、現名城大学教授)だったと思います。斉藤君が助手になって最初に演習を担当したのが杉江教授の離散数学の講義でした。私は彼の仕事ぶりが少々心配で、ちゃんとやっていますかとお聞きしたところ、すかさず、あれは頭のいい人ですね、と言われ、私は実は意外な感じがしたものです。博士課程の指導の間、彼からそんな印象は受けなかったからです。これは私の全くの不覚です。斉藤君、済みませんでした。
 一方、日常の振る舞いの端々には何となく「宇宙人」的?な面もなきにしもあらず、と言ったら怒られるかな。
                    (鳥脇純一郎)

筆者連絡先 :

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     名古屋市千種区不老町 名古屋大学大学院工学研究科情報工学専攻
Tel. 052-789-3308 (dial in) 052-789-5152(専攻・学科事務室直通。伝言可)
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斎藤豊文先生 追悼

独特の雰囲気をもつ、もの静かで知的な、笑顔の素敵な人でした。本当に惜しい方をなくしたと思います。

斎藤さんが亡くなられたことは本当に衝撃であり、思い出すたびにつらく、再三要請を頂きました追悼文も、思い乱れるばかりで、なかなか書けませんでした。前後関係も何もなく、とりとめもない文章ですが、印刷の締切とのことですので、もうこれでお送りします。どうかお許し下さい。

斎藤さんがどのような原因で亡くなられたのか、本当にわかりません。斎藤さんが亡くなられて以来、ご家族の方も含めて多くの皆様から本当はどうして亡くなったのか、とずいぶん質問されました。約7ヶ月経過した現在でも学会で親しかった方などから時々質問を受けるほどです。しかし、本当にわからないとお答えするしかありません。非常に急なご病気(発作のようなもの)であったのではないかと思うだけです。

”事件性はありませんね。長年の勘から、まず間違いないと思いますよ。”これが、かなり長い時間をかけて行なわれた現場検証のあと、いかにもベテランらしい警察の方から私が聞いた第一声でした。

森君から斎藤先生がなくなったと電話があったのは10月26日の夜7時半頃だったように思います。帰宅したばかりの私は斎藤さんの下宿に急行しました。ちょうど、先に到着していた消防の救急隊が警察にあとを託して帰るというところでした。すでに斎藤さんの部屋は警察の厳重な管理下におかれ、警察の方による発見者の森君と林君からの事情聴取が行われていました。

伊藤先生や大阪に出張されていた鳥脇先生を始めとする大学の皆様、ご家族の皆様が時を追って次々と到着されました。部屋は最初から最後まで厳重な警察の管理下におかれ、ご家族の皆様以外は全員、部屋から離れた道路で待ちました。ご家族の皆様の悲しみはいかばかりか、はかるべくもなく、寒い暗闇の中で我々はたちつくすばかりでした。10月としては珍しく非常に冷え込んだ日で、森君からの電話を受けてあわただしく車に積みこんでもっていったいくつかの防寒衣が皆様のお役に立ちました。

長い時間をかけた警察の現場検証の結果、事件性は全くないという最終判断が出され、その結果司法解剖は行われないこととなりました。さらに、ご家族の皆様も病理解剖を希望されませんでした。ご家族の皆様の「このままそっとして、早く郷里へ連れて帰ってやりたい」とのお話に胸をうたれ、言葉もありませんでした。ご家族の皆様が斎藤さんを連れて郷里に向けて出発されるのをお見送りした後、鳥脇先生を車でお宅にお送りして帰宅した時は夜中を大きく回っていました。

本当に惜しい方をなくしました。大変魅力的な方でした。斎藤さんとは、たぶん、ずっと以前にも学会や研究会などでお会いしていたのではないかとは思うのですが、明確な形でお会いしたのは、1997年に私が名古屋大学に着任する少し前に大学にうかがった時であったと思います。

これまでもいくつかの葬儀を経験した私は、「朝に紅顔ありて夕に白骨となれる身なれば」という言葉の意味を十分に理解していたつもりではありましたが、斎藤さんが亡くなった日ほど強烈にこの言葉の深みを実感した日はありませんでした。

生前、よく、斎藤さんが自ら「8号館2階の205号室に棲む」といっておられたのが強い印象となって残っています。実際、205に行けばかなり高い確率で斎藤さんに会うことが出来ました。また休みの日に出勤すると、よく、ほとんど誰もいない3階の計算機の前で仕事をしている斎藤さんに出会いました。

たしか、斎藤さんが亡くなった10月26日は木曜日でした。私はその前の日曜日に、やはり3階の計算機の前で一人で仕事をしている斎藤さんに会いましたがそれが最後になってしまいました。

斎藤さんとは4年たらずのおつきあいでしたが。私が企業から大学に赴任して来て、立ち上げの時期にあたる全く余裕のない4年間でした。斎藤さんには、鳥脇研だけでなく末永研の学生たちも様々な良い助言を頂きました。沢山の学生の研究指導、科研費の研究分担者、末永研の院生も全員出席の鳥脇研輪講指導、を始め、多くの仕事を精力的に正確にこなす力量に常に感心しておりました。本当に感謝しています。

実際には斎藤さんも私もお互い常時非常に多くの仕事をかかえているため、ほとんどちょっと立ち話をする程度のことが多く、じっくりとお話をする機会はあまりありませんでした。それでも、斎藤さんがお世話下さったPRMUアルゴリズムコンテストやPRMU専門委員会主催の懇親会などで何度かお話をする機会があり、それにつれ、ますます斎藤さんが好きになりました。

葬儀の折に初めて斎藤さんのふるさとを訪れました。斎藤さんから「川の水がそのまま飲める」と聞いていた通りの素晴らしい場所でした。よく昔話をしてくれた私の祖父の故郷からも、県は隣ですがそれほど遠いところではありません。斎藤さんや祖父の話にあったのはこのような場所であったのか。清流が耳をうち緑があふれる景色に思いを重ねました。

葬儀に参列するため車を止めた場所で地元の年配の男性の方とお話をしました。「斎藤さんは小さいころから本当に静かな人じゃった。時々家に帰って来ておられた。つい先頃もあの橋のところで逢うたばかりじゃ」という意味のことを話しておられました。

斎藤さんには本当にずっと長生きをして活躍をして頂きたかったと思います。斎藤さんが、もし、もっと早く結婚されていたならば、忙しいとしてもある程度のところで歯止めが効いたかもしれないと勝手な思いが巡ります。

私は昨年4月9日に父を亡くして以来、10月26日の斎藤さん、1月4日の内川先生が亡くなるまでのわずか10ヶ月の間に5人もの身近な人々を見送りました。私もつらい思いから立ち直るのには時間がかかりました。

私とくらべて斎藤さんとのおつき合いがはるかに長い鳥脇先生はじめ同研究室出身の皆様の受けられた痛手は想像を絶するものがあると思います。そして何よりも、全く思いもかけない時に斎藤さんを亡くされたご両親様、ご親戚の皆様の受けられた衝撃と悲しみはいかばかりであったかと思います。

斎藤さんのご冥福と、残された皆様のご健康ご多幸をお祈りいたします。

ーー末永康仁
  〒464-8603 名古屋市千種区不老町
  名古屋大学 大学院工学研究科
  計算理工学専攻・情報工学専攻
  Tel: 052-789-3809 Fax: 052-789-3815
  Email:
suenaga@cse.nagoya-u.ac.jp

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齋藤豊文先生追悼文

 齋藤豊文先生に初めてお会いしたのは、私が難処理人工物研究センターの難処理人工物解析システム研究グループを担当するようになった1999年4月のことでした。それまで私は理工総研の総合基礎材料科学研究グループに属し、兼担先は結晶材料工学専攻と応用化学専攻でした。情報工学の先生方とお話をする機会はほとんどありませんでしたので、難処理の解析システム研究グループで一緒にセンターの仕事をやっていくのに多少とまどいながら、はじめて齋藤先生とお話をしたのを覚えています。
 先生は私より先にセンター創立のときから解析システム研究グループの助教授として着任し、前任の服部忠教授とともに研究室の運営に当たってこられました。服部教授によると、名古屋大学の廃棄物処理施設が学内化学物質管理システムを立ち上げようとしていた当時、齋藤先生が実質的にこの作業に協力されたことを伺いました。私も難処理の仕事と齋藤先生のご専門との接点を見いだそうと、それなりの努力をしてみました。先生には研究室のセミナーで医療用画像処理のお話を化学系の学生の前でして頂いたこともあります。また、私の専門領域である無機材料の合成やリサイクルに関する実験研究の内容を聴いて頂いたこともあります。先生にとっては、情報工学の先生がたや学生とのセミナーのほうがどんなにか面白く活発に討論できたことだろうと想像しますが、私たちのセミナーでも例のたんたんとした表情で「まったく初めてなんで、解りませんけれど、.....」と素人の質問を学生にして下さいました。どんなにか忍耐を必要としたことかと、今でも申し訳なく思っています。
 その後、センターでは私たちの研究グループを中心に共同研究プロジェクトを立ち上げることになりました。これは、「レスキュー・ナンバーによる難処理人工物の最適処理評価システムの開発」に関するものですが、この研究プロジェクトは齋藤先生のご協力・ご指導なしでは遂行できない性質のものです。今後、この評価システムを一般市民にも解りやすい可視化されたシステムとして完成させようとしていた矢先のご逝去となり残念でなりません。心からご冥福をお祈り致します。

名古屋大学 難処理人工物研究センター
教授 伊藤秀章

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斎藤豊文君を偲ぶ

今だに鳥脇研究室の部屋のどこかの椅子にでも寝ていていつか突然に現われてくれるような気がしています。私は、3次元デジタルトポロジーの研究で斎藤先生が大学院生の時代に一緒に研究をやってもらった訳ですが、研究の話し合いの場で淡々としていますが、実に深く研究テーマを掘り下げており、何を質問しても自分の見解をきちんと答えるのには驚きました。また、こういったテーマは数学的な直感力が必要ですが、個性的なアイデアを出してくる点は非凡なものを感じました。
ただし、学生時代に外から受ける印象ではいつも研究室にいて勉強ばかりしているタイプに思え、数学者にありがちな一匹狼的な研究者になるのではないかと思っていました。しかしながら、私が情報文化学部へ移ってから会う機会が少なくなりましたがたまに会うと会うごとに人間の幅が広くなっているのに驚きました。最近の印象では十分に多くの人々をまとめられるリーダーとしての役割も担えるという印象でした。きっと、鳥脇研究室のまとめ役として欠かせぬ存在になっていたのではと思います。鳥脇研究室出身の私としては将来の鳥脇研究室の中核的存在になると期待していたのに本当に残念なことです。斎藤君の笑顔はずっと我々の心に残っていくと思います。

                              横井茂樹
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いまは真夜中、電話の向こうから君の声が聞こえる。そして、互いに変わりのないことを確かめ合うような、君と僕のいつもの会話。
「おい、まだ居るのか?先生になっても生活は学生のままだなあ」
「いえ、学生のときよりすごいですよん。だって、完全に住みついてますもん」
学生の立場から先生という存在へ滑らかに変化する不思議さ、しかし、もう学生時代には戻れないという何かほろ苦い現実。君はそれに自分で驚き、そして結構気に入っていたのかも知れない。その気持ち、わかるよ。なぜって?僕も同じだったから。
君はいつか、実家の近くにある薄墨桜の話をしてくれたっけ。あんな薄汚れた色の桜を、みんな列を作って見にくるんですよねえ、と言っていた。
君に別れを告げる日、初めて僕も見た。確かに華やかではないけれど、無言でどっしりと息づく存在感に圧倒されたような気がする。ああ、これを見ながら君は育ったのかと思った。ひょっとして、研究室の薄墨桜は君だったのか?
君にはいろいろ世話になった。やすらかに眠って欲しい。

長谷川純一

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真っ白なワイシャツが似合っていた齋藤君
情報文化学部 安田孝美

 齋藤君というとあの真っ白なワイシャツ姿が思い出されます。5号館に研究室があった頃、薄暗い建物の中で彼のすがすがしい姿が映えていました。沈着冷静な頭脳を持ちながら、周りの人々のことをいつも気遣っていたことを思い出します。私も何度か齋藤君にいろいろと助けられました。特に個人用に使っているMacintoshの調子が悪くなると、いつも彼にお願いしていました。彼自身もさまざまな用件を抱えているのに、何時間もつきあってくれたこともありました。私が情報文化学部に移動した時も、外付けのHDを持参して私のPCのセットアップを手伝ってくれました。わざわざキャンパスを横断してやってきてくれたことは彼の優しさを表していると思います。
 いつかの夜遅く、5号館の研究室で、齋藤君の出身地である根尾村の話を聞いたことがありました。本当に山の中の村で高校から下宿していたということに驚き、手のひらを大きく広げたくらいの蛾がガラスに着くことは日常茶飯事と言われ、一体どんな所だろうと思っていました。いつか泊まらせてね、とお願いしていたのに、初めてその地を尋ねたのが齋藤君の葬儀の日でした。本当に絵に描いたような山村で、静かさと山々の大きさと気高さを感じられる所でした。
 今、彼はその静かな地で安らかに眠っています。やり残したこと、やりたかったことはたくさんあると思います。それらのうちのほんの少しでも、残された我々ができる範囲でやっていかなければいけないと思います。
 齋藤君、お世話になりました。ありがとう。
どうぞゆっくりと休んで下さい。

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齋藤豊文先生を偲ぶ

齋藤豊文先生のことを思い出す度に真っ先に心に浮かぶのは,先生の心根(命)の優しさ,涼しさ,強さ,です.研究者としての一流の才能と業績はもちろんですが,同時に,何をおいても思い出されるのがこの三つです.
命に形があるなら,齋藤先生の命は,ガラス細工の持つ繊細な曲線と木彫りの彫刻に見られるような朴訥な線とを同時に持つ不思議な形をしているように思えます.色があるなら,どこまでも深く澄みきった深山の湖の色でしょう.音がするなら,程よい緊張感のある澄んだ音がすると思います.また,寂しがり屋で,暖かくて,親しみのある,そんな世界に二つとない芸術的で人間的な命の姿が思い浮かびます.10年間という時の中で齋藤先生から受けた恩の深さは測りきれません.困った時には必ず陰に陽に手を差し伸べて頂きました.例えば,学会発表のための実験が上手く行かずに発表当日の朝まで実験をしていると,静かに後ろに立たれてしばらく私のやっていることを見られた後,急所を突いた助言を頂いたことや,また,何もおっしゃられずに黙々と発表の準備を手伝って頂いたことは数限りなくあります.さらに,悩みを持っていると,(齋藤先生のすごい所は)まず間違い無くそのことに気づかれて,こちらが黙っていても声をかけて頂きました.人の心を鋭く感じられ,かつ,そこに必ず心を配られる姿勢には,真の心根の優しさを感じ,心の底から敬服していました.また,そのことと合わせて決して忘れられないのが,頂いた助言やお話の爽快さ(切れ味の鋭さ)です.一見複雑に見える事象を大所高所からズバッと一刀両断にされ,斬新な切り口を見せながら本質を突いたお話をして頂くたびに感動さえ覚えていました.さらに,それらは,齋藤先生一流の笑顔と親しみのある言葉によって伝えて頂きました.
「これが○○○で,あれが○○○だから,○○○でしょ? ほ〜ら.○○○なんだって」
「はぁ〜.ここが○○○で,そこが○○○だと,幸せだよね? やってみない?」
「かずしげぇ〜(清水のあだ名).またぁ〜? まったく.ちょっと見せて...」
何度助けて頂いたことか,数え切れません.感謝の言葉に対しては,照れたような無愛想な素振をする姿が思い出されます.助けて頂いた私が残り,今この文章を書いていることに強い憤りを感じます.齋藤先生の声が聞けないことにどうしようもない深い暗い悲しみがこみ上げてきます.
あまりにも突然に,残酷な病魔が私たちから齋藤先生を奪ったことには口惜しさが尽きませんが,齋藤先生の命の軌跡は,これからも決して色褪せることなく,生涯私たちの中で輝き続けるでしょう.齋藤先生の命は,今は何処かで休んでいるのでしょうが,いつかまた会える日が来ると強く信じています.

静かな春の日だまり.ゆらめく夏の陽炎.澄んだ秋の空気.凍える冬の風.
これからは,共有させて頂いた膨大な時の一つ一つを命に刻み,歩んでゆきます.
心からご冥福をお祈りいたします.

平成13年3月26日
東京農工大学 清水昭伸 (かずしげ)

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斎藤先生へ

先生のこと、本当にショックでした。
あの後、年の暮れに高校の友人が会社の作業中の事故で死んで、人間て、こんなに簡単に死ぬんだなって。
親父も病気で死んでいるので死に対してはある程度免疫が出来ていると思っていたけどこの一年は本当に色々考えさせられました。
斎藤さんには言葉では言い表せないぐらいお世話になっていて、ほんと、斎藤さんとの大学院時代なくしては今の僕はないですよね。
中京大に移ってからは、忙しくて学会のときに会うぐらいしか出来なかったけどあの学生時代の生活はいつも恋しく思っていました。
これからも斎藤さんと過ごしたあの大学院時代は一生僕の中からは消えません。
まだ教えてほしいこともいっぱいあったけど、斎藤さん今まで本当にありがとう。

宮崎 慎也


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齋藤先生への追悼の言葉
齋藤先生との鳥脇研究室での日々
目加田慶人

私と齋藤先生とお付き合いさせて頂いたのは平成2年,齋藤先生が博士3年の春に私が鳥脇研究室に卒業研究生として配属された時に遡る.それ以来,私が博士課程を終え宇都宮大学で助手として働く現在まで11年あまり,先生は研究活動に関しては良き手本であり,その厳しい指摘は私にとって"いつかは誉めてもらおう"という励みであり続けました.また,一個人としても共通の趣味,共通の郷里を持つ先輩後輩の間柄であり,その親しみやすい性格から年齢差を感じさせない付き合いをさせて頂きました.研究室で非常に忙しくされているか,その全く逆で計算機に向かい集中していたり,徹夜明けで寝ていたりと研究室,特に工学部8号館205号室の一部分のような存在であった齋藤先生のことを思うと,昨年10月に舞込んだ突然の訃報はいまだ受容しがたいものであります.今まで公私に渡りお世話になった齋藤先生へのお礼として,私が学生時代に齋藤先生と鳥脇研究室で過ごした(遊んだ)ごくありふれた日々を綴り,助手時代の齋藤先生が研究以外でどの様に過していたかを,先生の日常生活の記録として寄稿させていただきます.
先生の趣味はスポーツ,とりわけ,スキーとテニスでした.どちらも,鳥脇研の学生が中心になって活動していた"Pixel"というサークルの仲間と一緒に活動されていました.冬になると,当時自動車に乗っていなかった先生は,私たちのような"車を持っているスキーヤー"を誘っては平日の雪山で一日を過ごしていました.先生のスキーにかける情熱はかなりのもので,防水ケースに入れたビデオカメラでお互いの滑りを録画しての研究はもちろん,スキー番組を見ながらのイメージトレーニングや筋トレも独自にされていました.また,道具も大切にされていて,同行者も含めたスキー板への入念なワックス掛けは時には7,8人分にもなり,3階輪講室にワックスの削りかすの山ができたと記憶しています.スキー,テニスに限らず何においても手を抜かないので,先生とスポーツをする日はとどちらかがへたばるまで続くタフな一日でした.
先生はお酒もかなりいけるほうで,研究室の飲み会や花見はもちろんのこと,誰かが一言声をかけると,買出し部隊がすぐにワイン,日本酒,ポテトチップス,チーズ等をそろえ,みんなでつまみを調理しながら朝まで205で騒いでいました.一人ずつ寝ていく中,面倒見のいい齋藤先生は,ほとんどの場合後片付けまで寝ず,時にはそのまま仕事をしていたのを記憶しています.齋藤先生は,研究室の後輩の結婚式に呼ばれると,その後輩の研究室での活動を日ごろから撮りためた写真やビデオを編集して,スライドやビデオを作り,面白いコメントを入れながら紹介するのが定番でした.それらのスライドやビデオを作る際も決して手を抜かず,結婚式の当日ぎりぎりまで良いものを作ろうとされていました.その姿は学会発表用の資料を作るときと同じ位かそれ以上で,齋藤先生のスピーチを聞くのが楽しみでした.亡くなる数週間前もホテルでビデオ編集をしているのを拝見し,私たちはいつ斎藤先生のビデオを作れるのか楽しみにしていたばかりなのに,非常に残念で仕方がありません.
研究を通してはもちろんのこと一緒に遊んでいたときにさえ,"興味をもったことにはとことん打ち込む"ことの大切さを先生から身をもって教えていただきました.残された者として,これからの研究・教育活動の指針としてがんばって行きます.私はこの4月から名古屋大学に異動になり齋藤先生の居室をつかうことになりました.先生がそこには居ないのに,"葉から根(先生が10年程育てている植物)"や可愛げのある数々の小物など先生の想い出の品がまだ残されていて,非常に複雑な思いです.齋藤先生が担っていたことの重要さを考えると,私がどこまでそれをできるか自信はありませんが,齋藤先生がそばにいるつもりで,先生に小言を言われないよう努めたいと思います.これからも私の心の中で叱咤激励をよろしくお願いします.


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齋藤先生を送る言葉

          株式会社富士通研究所 情報サービス研究部 北川英志

 齋藤先生には、先生がまだ鳥脇研究室の博士過程後期過程に在籍されているときから、よき先輩、よき先生として公私ともに大変お世話になりました。

 研究室に常駐されていた齋藤先生は、我々後輩達に気さくに声をかけ、研究のことをはじめとした様々な会話を楽しまれていました。豊富な内容を常に鋭い切り口で話されるその語り口に、時間を忘れて話しこんでしまうこともしばしばでした。
 齋藤先生とは研究だけでなく、昼食や飲み会、スキーやテニスなど、私の学生生活のほとんどの時間を共に過ごし、楽しみ、ときには叱咤激励されて歩んできました。
 本当に様々なことに興味を持っておられ、たとえスキーやテニスであっても理論的な考察を常に試みて、技を磨かれていたことを思い出します。研究でも遊びでも、常に深い考察に基づいて述べられる齋藤先生のご意見は、ときに新しいことの発見につながり、ときに議論を深める役割をしました。私の学生生活において、齋藤先生の知見にかくも長い時間触れることができたことは、大変幸せなことであったと思います。
 研究室に入ると当然のように齋藤先生がいらっしゃる・・それがいつまでも変わらないことと信じて疑わなかったのに、突然の訃報にただただ驚き、悲しみを禁じ得ません。
 齋藤先生の思い出は尽きませんが、先生から頂いた数々のご指導に感謝しつつ筆を置きたいと思います。
 齋藤先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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齋藤先生との思い出

齋藤先生との出会いは、先生がまだ博士課程の学生だった頃です。卒研生の頃は、研究テーマが違っていたこともあって普段はなかなか話もできませんでしたが、卒業研究の締め切り日の朝になっても図が書けないで困っていると、「図を作っておいてあげるから、一度部屋に帰って寝てこい」と手伝ってくれたことを思い出します。思い返せば、齋藤先生が博士課程の雰囲気を教えてくれたからこそ、大学院への進学、そして、教官となった現在の自分がいるような気がします。

大学院に進学して、テニスやスキー、CBCでのアルバイト、無論、研究も、研究室で過ごした何年間かは、殆んど全て、齋藤先生と過ごした期間であったように思います。週末(平日も?)の研究室で行われた酒盛りでは、自作の肴を振る舞ってくれたり、明け方まで他愛も無いおしゃべりに付き合ってくれたり...、思い出はつきません。自分にとって幸せな学生生活だったと思います。

大学を卒業してからも、たまに研究室を訪れると、必ずいつもの格好で出迎えてくれました。自分の結婚式の時にも、無理にお願いしたスライドショーもすばらしい出来で、後輩思いの良き先輩でした。「このお礼は絶対に先生の結婚式の時に...」と話していた矢先の訃報、残念でなりません。

安らかにお眠り下さい。

東海 彰吾
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「あまりにお若い」。悲報に接し、言葉もありませんでした。
つくばからの新幹線通学の中年学生にも、本当に暖かく親身にご指導下さったのが
忘れられません。やりきれません。
昨年10月、非常勤講師として研究室にお邪魔した際、PCのディスプレイ設定
確認をさっさとして下さり、「新しいPCはペンティアムIII,1GHzなんですよ。
メモリも1GB、見ませんか?」とおっしゃって研究室を案内していただきました。
計算機の能力も眼を見張るばかりですが、それを思う存分享受され研究に投入されて
いるのを目の当たりにし、「一体どのくらいの計算能力をご要求なんです?」と
冗談交じりにお聞きしたのが、最後となってしまいました。
名古屋の鳥脇研に行けば、当然のようにいらっしゃるはずの斉藤先生が
いらっしゃらないというのは、精神的空洞のように感じられます。

演算器用デバイスの高性能化は今後も果てしなく続きます。
先生の御遺志を継がれた若き諸子の素晴らしい研究がそのようなデバイスを
駆使して花開く日を、その中に先生のお姿を見ることができる日を
ここ、つくばで待望しております。

「また、計算能力のご要求、そっと、教えてくださいね。」

斉藤先生のご冥福をお祈りいたします。
合掌

Texas Instruments Japan Ltd.
市川 吉晴

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齋藤先生へ

齋藤先生が旅立たれてから早くも5ヶ月が過ぎ去りました.本当に月日の立つのは早いものです.齋藤先生がいなくなってから,あらためて齋藤先生の素晴らしさを痛感しています.私は4年生の時(1991年)に鳥脇研究室に配属され以来,ずっと齋藤先生にはお世話になりっぱなしでた.昼夜を問わず私のいろいろな相談にものっていただきました.齋藤先生が考え出すアイデアは,誰もが思いつかないものでありますが,それが一番の解決方法でした.私の,愚痴,とりとめのない話題,計算機の話題,社会情勢,など嫌な顔一つせず聞いてもらいましたよね.また,親身にアドバイスも頂きましたよね.そして,私が必要な予算のことを常に気にしてくれて,必要なものをすぐに手配していただきましたよね.もちろん私の研究に関しても,齋藤先生の研究であろうとなかろうと,いつも真剣に考えてくださいました.本当にとてもとても優しい齋藤先生でした.普段何気なく相談していた齋藤先生が急に旅立たれてしまうとは夢にも思っていませんでした.とても残念でなりません.
 さて,齋藤先生,齋藤先生は海外出張するのを楽しみにしていましたよね.私と一緒に海外に出かけたのは,アメリカ・サンディエゴ,サンフランシスコ,スペイン・バルセロナと3度ですね.これらの海外出張(旅行?)は齋藤先生との良い思い出です.アメリカでは,私がドライバー,齋藤先生がナビゲータとして,計算機関連の企業をたくさん回りましたよね.そしてアドビ,シリコングラフィックスなどの会社の前で,齋藤先生の大好きな写真をたくさん撮りました.こんなマニアックレンタカードライブに快く付き有ってくださるのは,きっと齋藤先生だけでしょう.サンフランシスコでは毎晩いろいろなレストランを回りましたよね.ワインのナパバレーにも一緒に行きましたね.バルセロナでは,嫌な顔一つせずに瑞南(私の長女)の面倒を見ていただきましたよね.「カメラが壊れたから今からカメラ買ってくる」「ええーー,サグラダファミリアを撮るのに写るんですじゃやだ」などの言葉は今でも忘れません.博物館では,齋藤先生,私,瑞南の3人で家族料金で入場しましたよね.戸籍上は家族ではありませんでしたが.でも,本当に家族のようでした.とても,頼もしくてやさしいお兄さんの感じでした.もう,これで齋藤先生と一緒に海外旅行に行くことができないのというのは信じられません.
 齋藤先生,齋藤先生は昨年12月ドイツ Dagstuhlで開かれるWinter school"Digital and Image Geometry"をとても楽しみにしていましたよね.私も齋藤先生のお供として,一緒に行けることを楽しみにしていました.これが海外に一緒に出かける4度目の出張になる予定でした.それがまさか,齋藤先生の追悼講演になるとは夢にも思っていませんでした. Winter Schoolの参加者みんな齋藤先生の業績を知っており,そして,齋藤先生の突然の死を嘆き悲しんでおりました.でも,齋藤先生,ご安心下さい.齋藤先生の業績は私がきちんと宣伝してきました.きっと,いつまでも齋藤先生の名前は"Digital and Image Geometry"の世界でも語り継がれると思います.
 齋藤先生,時々ふと考えてしまいます.齋藤先生は単に長期の出張に出ているだけなのではと.そのうち戻ってくるのではないのかと.そして,いつものように,私の部屋を1度だけ「コン」とノックして.「もりくーん,何か欲しいものない」といつものように聞きに来るのではないのかと. もうすぐ新しい年度が始まります.研究室もまた大きく変わることでしょう.でも,齋藤先生の偉業はずっと語り継がれるでしょうし,そうして行きたいと思います.
 齋藤先生,またいつかどこかでお会いしましょう.そのときも,これまでのように優しい齋藤先生でいてくださいね.

平成13年3月31日
名古屋大学大学院工学研究科計算理工学専攻
講師 森 健策


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 斎藤先生には、とても沢山のことを教えていただいた気がします。研究のこと、大人としてわきまえるべきこと、テニスのこと、ゲームのこと...数え上げたらきりがありません。
いつも私のことを年下の友達のような感じで「てっちゃん!」と気軽に声をかけてもらっていたことを思い出します。
 僕のような故郷名古屋を離れて生活をするものにとって、斎藤先生は灯台みたいなものでした。
暫く会わなかった先輩、後輩のことでも斎藤先生に聞けばきっとわかるんじゃないか、同級生のことですら斎藤先生経由で情報を集めた方が早いんじゃないだろうか?
いつもそんな気がして、205に顔を出していたものです。今でも205に行けば、斎藤先生に会えるような気がします。

天国で安らかに

 通信総合研究所 藤井哲也

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斎藤先生へ

斎藤先生には1992年に卒業研究で鳥脇研究室に配属になって以来,8年以上お世話になってきました.
特に研究室での生活が中心であった私の大学院時代は斎藤先生抜きでは語れないものです.

研究に関しては,私が行っていた仮想彫刻の研究をとても高く評価していただいたことで研究を続ける大きな励みになったことがとても印象に残っています.
研究の進め方,論文の書き方,発表の方法などについても多くのアドバイスを頂きました.
スペインのバルセロナで行われたICPR2000では一緒にポスターセッションに参加しましたが,熱心に質問をしていた姿が思い出されます.
またディナーパーティーでは席が隣同士でいろいろ話をしたこと,そして論文集を郵送するために浜田さんと共に郵便局を探して街を歩き回ったこともありました.
研究以外に関しても,夜に研究室で少し飲んだり,音楽番組で流行りの歌をチェックしたり,ゲームで遊んだりするのにも,私たちに付き合ってくれました.テニスやスキーなどスポーツも大好きで,特にスキーに関しては斎藤先生の車の助手席にスキー板を積んで,私と斎藤先生が車の前後席に座ってゲレンデまで走ったことも何回もありました.
スキー仲間を失った今シーズンはゲレンデには行きませんでした.

本当にお世話になりました.
同じ道を進む者として斎藤先生を目標にがんばっていきたいと思います.

2001年3月22日
  豊橋技術科学大学 水野慎士

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さいとうさんへ

さいとうさんと知り合ったのは、ちょうど8年前ですね。そして、さいとうさんと私とは8歳違い。今の私の歳のさいとうさんに、出会いました。他大学から鳥脇先生の研究室に入った私は、さいとうさんの授業なども受けたことはなく、まだまだ若いさいとうさんは、先生と言うよりは先輩と言う感じで接してくれました。だから「齋藤先生」ではなく、「さいとうさん」と呼ばせて頂きます。

でも、研究のことになると、しっかりしていましたね。そんな時は、やはり「齋藤先生」でした。時には厳しい言葉も頂き、私は出来の悪い学生だったことでしょう。あの頃のさいとうさんの立場になった今の私は、齋藤先生のように、さりげなく立派な仕事が出来るように頑張っているつもりです。普段見るさいとうさんは、いつものんびりしていて、何も考えていないような感じでした。研究者の世界に、片足の指先を突っ込んだ程度の私には、そう見えたんです。片足の半分くらいを突っ込んだ頃には、再認識させられましたが。

そして、本当に先輩として、色々と一緒に遊んでくれましたね。テニスをやり、スキーに出かけ、花火や海水浴などドライブにも行った思い出がたくさんあります。さいとうさんが車を手にいれたのは、まだ数年前ですね。それまでは、ほとんどペーパードライバーだったさいとうさんが、帰省やスキーにまで車を使うようになりました。人を乗せるには小さな私の車に代り、よく乗せてもらいました。

数年前、と言うことは、私が鳥脇研究室を卒業して就職した後でしょうか。さいとうさんは、いつも研究室にいたので、近くにいる私はよく休みの日に遊びに行きました。車の話も、よくしましたね。車のトラブルの話なども。きっと、さいとうさんがいるだろう、と思うと、研究室にも行きやすかったものです。でも、最近はなんだか行きにくいんですよ。さいとうさんに最後に会ったのは、やはり研究室でした。そう言えば、それから行ってません。

一緒に飲んだことも、数えきれません。特に何かの日というわけでもなく、飲んだこともありました。ひとりでビールを飲みながら、これを書いています。もうすぐ春という今、別れの季節ではありますが、さいとうさんとの別れは突然で、そして大きすぎました。また、いつか一緒に飲みましょう。約束ですよ。

平成13年 3月24日
「しっぽのけんちゃん」こと、舟橋健司

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齋藤先生は,研究熱心で指導能力のとても優れていた先生でした.ただ,これらの能力のすばらしさについては他の方に譲ります.今回は,個人的に最も尊敬していた齋藤先生の「面倒見のよさ」について述べさせていただきます.「面倒見のよさ」と「指導能力」については,同様のものであるという意見もあると思いますが,私は似て非なる物であると考えています.
学生の進むべき方向性を明確に示す指導能力の優れた先生はたくさんいらっしゃいますが,齋藤先生はその後,学生が示した方向へ間違いなく進んでいるかを常に見守り,適切なアドバイスを与えてくれました.
これは,一つ間違えると学生からはうるさく見えるのですが,齋藤先生は,そのお人柄から,決してそのようなことがありませんでしたし,昼夜を問わず相談にのっていただいたことも度々あります.
私も就職して6年目です.そろそろ後輩も増え,指導的な立場に立つことも増えつつありますが,齋藤先生の「面倒見のよさ」を見習っていきたいと思います.

荒川 守人

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斉藤先生といえば、やはり「鳥脇研に棲んでいる」と印象が一番強く残っています。鳥脇研を卒業してから何度か伺った時も、やはりあの場所に斉藤先生がいらして、研究室の雰囲気は変わっていっても、そこだけは変わっていなくて、ほっとしたことを覚えています。

安藤 研史

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斎藤先生へ

私が鳥脇研究室の卒研生として、8号館205号室に訪れる以前から斎藤先生は有名人でした。たしか大学3年のとき、同じ学科のある友人は、研究室配属の話題がでると「鳥脇研究室は厳しいよ、それに斎藤先生がいるし」と言って、私を脅かしたことを思い出します。実際、鳥脇研究室へ配属になり、卒業研究と大学院の約3年の間、ディスカッションと輪講の場で斎藤先生の厳しいご指摘を何度か受けました。しかし、単に厳しいだけではなく鋭くもあるのが斎藤先生のすごいところです。私も含め同期の友人は、研究の中間報告の発表の場で、よく斎藤先生に撃沈され、リターンマッチに持ち込まれることがありました。それと同時に、斎藤先生の貴重なアドバイスによって研究が前進することもまた事実でした。物事を多面的に捉え、学生の研究に助言できる人として、斎藤先生は鳥脇研究室には必要不可欠な存在だと私は感じていました。
また、テニス、スキー、バーベキュー、花見、花火そして紅葉狩りなどサークル活動でもいっしょに楽しませていただきました。夜の205号室では、先輩、同期そして後輩といっしょになってテレビをみたり、ゲームをして遊びました。一方で、研究に関する問題も真剣に議論したり、アイデアを出したりしている姿も印象的でした。
いまでも夜の205号室を訪れると、白いシャツと薄山吹色のスラックスは身につけた斎藤先生がいらっしゃる気がします。それほどに突然過ぎて信じられません。
いろいろなことを教わり、また、有意義な研究室生活を過ごせたことは斎藤先生がいらしゃったからこそです。本当に感謝しています。ありがとうございました。

松坂 匡芳

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 齋藤先生との出会いは1995年4月初めの205号室であったと記憶しています.私は電子情報学専攻でM1になってから鳥脇研に配属されましたので,他の同期の人よりは1年遅れて(講義などを含めるとそれ以上ですが)齋藤先生と出会ったことになります.M1になってから鳥脇研に配属された学生は,年度初めのディスカッションの時に卒研でどのような研究をしたかを発表することになっています.当時は卒論発表以外に発表したことなどありませんし,いきなりそんなことを言われても,どのような発表をすれば良いか分からないので,とりあえず鳥脇研に行って誰かに聞いてみようと思い,205号室を訪れたところ,ベッドで寝ている人がいました.起こすのも気の毒なので(徹夜あけの学生だと思いましたから),誰か来ないかとしばらく待っていても誰も来る気配がなく(鳥脇研の学生は朝が遅いのは当時からですね.もっとも305号室に行けば清水先生がいたはずですが.),そうこうしているうちにベッドで寝ている人が起きてきました.事情を説明すると,その人は「え〜,そんなの五島君(そのときのChair man)にTel Tel(テルテル)すればい〜じゃん.」とおっしゃいました.この“Tel Tel”という言葉にある種の衝撃を感じましたので,いまでもはっきり覚えています.そして,その電話での会話で,ベッドに寝ていたのが齋藤先生であったのを知りました.これ以降,5年半に渡って,齋藤先生とともに研究し,ときにともに酒を飲んできましたが,齋藤先生はいつも出会ったときと変わらぬ口調と若さ(若作り?)を保ちつづけていました.
 齋藤先生は,学生が困難な問題に直面すると,「え〜,やるだけじゃん.」と事も無げにおっしゃいました.これは齋藤先生が人並み以上に切れ者で常人にはすぐには見出せない解決法を瞬時に見出しているから言える台詞であろうと思います.齋藤先生はただ単に“切れる”人ではなく,興味を持ったことはとことん考え抜くという性格の持ち主でもありました.しかもその考えるスピードが速く,正確でしたから,学生が研究で悩んでいると,学生の説明が終わるのと同時ぐらいに解答を導き出してしまいました.おそらくこのような特技を持っている人は,あまりいないでしょう.
齋藤先生といえば,研究室に住んでいることでも有名でした.夜中でも休日でもたいていは齋藤先生が205号室か306号室にいらしたので,相談するのに非常に便利でした.そして,防犯の上からも一役買っていただきました.齋藤先生がいなくなってから,それまで鍵をかけていなかった部屋の鍵をかけたり,鍵束の保管場所を変えたりと,防犯に気を遣わなくてはならなくなりました.
 齋藤先生と出会ってから,亡くなるまでの5年半の間,そのほとんどの時間は教官と学生という関係でした.ようやく私が助手となって,いわば同僚(というよりは上司と部下)という関係になり,これからもっと突っ込んだ研究のことや,研究室の運営のことなどをうかがう機会があると思っていたのですが,半年という短い時間でそれらを全てうかがうのは無理でした. おそらくこれからさらに齋藤先生自身の研究を深め,周りの人たちをひっぱって行くはずだった齋藤先生を失ったことが残念でしかたありません.

2001年3月31日
名古屋大学大学院工学研究科情報工学専攻 鳥脇研究室
助手
平野 靖

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斉藤先生にはディスカッション時に時々手厳しい質問が出て困ったことがありましたが,非常に参考になる案もいただき,研究進展には助けられた部分がかなりありました.また,徹夜して研究をしていたときに,夜明けにふと斉藤先生が入ってきてプライベートな話をする機会があり,カメラの話で非常に盛り上がったこともありました.公私ともに本当に色々お世話になりありがとうございました.心からご冥福をお祈りいたします.

D3 前野 輝

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斎藤豊文先生には5年間いろいろお世話になりました。
僕の斎藤先生の印象は、「自由な人」です。
誰に対しても常に同じ接し方で、きつい言い方の苦手な人、気にしない人、メンタル的に弱っている人など、どのタイプの人にもいつも同じ口調でした。時にはそれは不快であったりしましたが、その中にやさしさを感じられる場合も多々ありました。原稿書きなどで夜遅くまでやっていた時、適切なアドバイスを頂いたり、はっきりとダメ出しをしてくれたりしました。

斎藤先生と二人でグリーンランドに行った時も、いろいろと面倒を見てもらいました。発表の前の日は夜遅くまで、と言っても白夜なので「夜」という実感はありませんでしたが^^;、練習につき合って頂きました。斎藤先生は本当に写真を撮るのが好きで、何回もウィ?ン(フィルムを巻き戻す音)という音を聞きました。「もう撮り終ったんですか?」と驚いて聞いた時も、「え?、普通でしょ」ってな感じでした。あと、歩くのがとても好きでしたね(グリーンランドでも革靴だったのは傑作でした)。とにかく歩きます。結構きつかったです。山登りの体力はこっちの方がさすがに上でしたが、全体として歩く量は斎藤先生の方が圧倒的に多かったと思います。

自由と言えば、斎藤先生は時間に対しても自由でしたね(ルーズという表現もありかな)。時間に束縛されない人だったと思います。いつもマイペースで、遅刻した時も「遅刻しちったぁ」で済んでました。そういうところは、僕としては結構好きな所でした。

あと、斎藤先生と言えば「205」ですね、やっぱり。「民宿205」や「居酒屋205」などいろいろ経営されてました。結構あの部屋で斎藤先生とお酒を飲んだと思います。サッカーを見ながら飲んだ時のことは一生忘れないでしょう。また、僕と斎藤先生は誕生日が同じで、去年か一昨年の誕生日に二人で205で誕生日を祝ったこともありました(かなりさむかったです)。

こうして振り返ってみると、斎藤先生との思い出は次々と出てきます。ですが、これ以上はダラダラとなってしまいそうなので止めておきます。

5年間本当に有難うございました。
安らかにお眠りください。

D2 北坂 孝幸

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斎藤先生は,研究に関していつも熱心に指導してくださいました。
僕等学生と一緒に食事に行ったり、スポーツなどを楽しんだこともありました。卒業して、間もなく突然の悲報を聞いたときにはとても信じられない気持ちでした。思えば研究室ではいつも斎藤先生にお世話になってばかりでした。
先生に指導していただいたように,これからも何事にも熱心に取り組んでいきたいと思います。
どうか僕達の今後を見守っていてください。

鳥脇研究室98年度卒業生 大河内俊雄

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大学4年、初めてお会いした時は、なんとくせのある方だと思いました。
それが、卒論シーズンから修士課程において、色々お世話になるなかで親しみへと変わっていきました。
独特の雰囲気、感性を持った不思議な方でした。
私が家に帰れなくなり(ほとんどは遊んでいての事ですが・・・)、205号室に泊まった際には、嬉しいやら悲しいやらいつも斎藤先生がいらっしゃりお相手して頂きました。
夜中、205号室に行くと愉しそうにゲームをしていらっしゃる姿もよく拝見しました。
また飲み会の席では、冗談交じりに、"あんたの研究は全く進んでおらんな!!"とからかわれました。(研究が進んでいなかったのは、事実でありました・・・)
学業面から遊戯に到るまで、斎藤先生には本当にお世話になりました。ほんとつい最近のことのように、あの笑顔を思い出します。今頃は、天国でいつもようにあのペースで愉しんでいることだと思います。再度、くどいようですが、本当にお世話になり有難う御座いました。安らかに。

伊達宣之
  日本アイ・ビー・エム株式会社
  コンピテンシー サイバー・アプリケーション技術 ハイブリッド・ソリューション

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斎藤先生のいらっしゃらない205号室はなんだか広く感じられて、とても寂しく思います。学校嫌いの私を斎藤先生はいつも気にかけてくださり、亡くなられる直前にも私の研究と卒業のことを心配してくださいました。
なんとか卒業できたことを報告できなかったのが残念でなりません。
夜中に研究室へ行くことの多かった私ですが、どんな時間でも斎藤先生がいらっしゃったことで安心できました。
最近では夜中に研究室の照明が落とされていることもよくありますが、蛍光灯の明かりだけでなく、心の支えとなる灯火までも消えてしまったように感じられます。
時には厳しく学生を指導され、また時にはお酒をご馳走してくださり、共に楽しい時を過ごされた斎藤先生の思い出は、皆の心に生き続けるでしょう。
謹んでご冥福をお祈りします。

M2 渡名喜 元史

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齋藤先生は正直,私にとっては恐ろしい存在でした.
いつ「卒業」の言葉で私の怠惰を叱責されるかと内心恐れていました.
怠け者の学生である自分にとって,同じ部屋に先生が作業されていたことは研究の進行状況に大きく影響し,もし先生が昼夜を問わず,学校に居られることがなかったら,僕の 研究はどうなっていたか,と少し情けなくも思います.
また,いつのまにか先生の本棚には私の研究に関する「曲面」についての参考書が置かれていました.
先生はいつも思い出したかのように,研究に関して質問を投げかけてくださりました.それは先生自身が理解を深めようと思われたことかもしれないが,先生の注文によって行った実験や,作成したグラフは自分の理解を深め,また後の学会発表に大いに役立ちました.先生との一問一答は,理解しがたく想像しにくい部分について理解を深める助けとなりました.
修士論文発表会において,齋藤先生と亡くなる直前に議論し,そのまま答えが出ぬまま帰らぬ人になられ,自分もうやむやにしてしまっていた疑問について問われました.もし先生がご存命であられたら,その疑問も解決されており,その場の質問にもうまく回答できたかもしれないとあらためて先生の存在を大きく感じました.
お亡くなりになるちょうど1月前,齋藤先生,東京農工大学の清水先生と研究室の面々との飲み会で,いつもは雲の上くらいの存在である齋藤先生は,お若い清水先生,平野先生のおかげでビルの上くらいまで降りてきて下さったような感じがしてとても楽しいお酒が飲めたことが記憶に残ります.
修士から鳥脇研に配属された自分にはもっと早くこう感じられたらと残念でなりません.
齋藤先生ほど,難解な問題の解決策を迅速に,そしてしごく容易に思いつかれる人に出会ったことは在りません.ここに尊敬と感謝の気持ちを込めて,心よりご冥福をお祈り申し上げます.

                    2001.3.22 国光 和宏

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齋藤先生へ

齋藤先生には直接の御指導を頂き大変お世話になりました。
修士より鳥脇研究室に配属したため、自分のすべき研究に関して全くの白紙状態でしたが、画像処理に関する研究の方向性を齋藤先生示して下さり、修士論文という形に出来ました。
これもひとえに齋藤先生による昼夜問わずの熱心な御指導のおかげでした。次々出される御指摘に、時には耐え難く感じることもありましたが、それを乗り越えたことで多くの新たな発見もありました。
一方では研究室に泊った際に、何気に布団を掛けてくれるなどの優しさも見せて下さったり、厳しさと気遣いを持ち合わせた先生でした。
齋藤先生の頭の中ではまだまだ多くの新たな研究事を思案されていたと思いますが、そのほんの僅かな一部ではありますが、共に研究する機会を得られたことに感謝します。
この2年間で得られたことを今後の人生にも活かしていきたいと思います。
ありがとうございました。

M2 熊川 直孝

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私は他大学から名古屋大学に進学してきたので、研究室並びにこの大学の事はよく知らなかったのですが、齋藤先生は気軽に接して下さいました。また、研究においても、基本的な事柄から熱心に指導して下さいました。わずかな間でしたが、齋藤先生にはいろいろな事を教わりました。本当にお疲れさまでした。

M1 山口 知章

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私自身は鳥脇研究室への所属が平成12年度から修士課程の学生としてだったこともあり,以前より研究室で活動なさっている先輩方や,同じく12年度から研究室に所属された卒研生の方々に比べて,齋藤先生から直接指導を頂く機会は少なかったのですが,出身大学の学部時代の所属が電子工学科だった私にとって,情報の学生としての研究に向かう基本的なスタンスなどを齋藤先生よりご指導承りました.
また,私が現在行っている 4次元空間の可視化についてという研究テーマは,齋藤先生よりきっかけを頂いたところが大きく,このテーマについて齋藤先生がどのようなことをお考えになっていたのか,今となっては直接伺う機会もありません.

M1 近藤 一臣

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主のいなくなったMacintoshはなんだか寂しげです。
明日MacOS Xが発売されますね。きっと素晴らしいと思います。
SAI and Mac forever!

M1 菅原 智明

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斉藤先生へ

斉藤先生には非常にお世話になりました。先生にはディスカッションなどで厳しいことも言われましたが、私たちのことを真剣に考えてくれました。斉藤先生にはもっといろいろと聞きたいこともありました。もうあの辛口の意見が聞けないと思うと非常に寂しく思います。斉藤先生短い間でしたがお世話になりました。いままでありがとうございました。

星野 好昭

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私は末永研に所属しておりますので、ゆっくりと話す機会は比較的少なかったのですが、卒業研究発表や、昨年の夏に長野で行なったMIRUでの発表の際にはいろいろとお世話になりました。卒業研究の時には、私の研究について非常に基本的なことから夜中に2人で議論し教えて頂きました。
また、MIRUの発表の際には、初めての学会発表である私の発表練習を見て頂いたり、本番の時にも発表資料等の運搬を手伝って頂きました。
最後に斎藤先生の御指導と我々学生に対する心遣いに感謝し、心よりご冥福お祈り申し上げます。

M1 東海林 秀典

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斉藤先生には、第四回アルゴリズムコンテストでいろいろお世話になりました。画像処理の基本からアルゴリズムコンテストの目的までいろいろアドバイスしてくださり、また発表当日では、家の前でパッタリ出会って、車のなかで色々雑談や画像処理などの研究について話し合ったりしました。そのときの思いでは、今でも忘れません。
M1から末永研に配属になり、斉藤先生とは半年という短い間でしたが、斉藤先生から教わった貴重な意見や御指導を忘れずこれからがんばっていきます。

石上 智英

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斎藤先生には、短い間でしたがお世話になりました。
研究を進めるにあたってのきっかけや、方針についていろいろご指導いただきました。斎藤先生は仕事のほうに大変忙しいにもかかわらず、僕たちの面倒を見てくれました。
斎藤先生に感謝の気持ちを伝えられず、残念です。

B4 出口大輔

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斎藤先生には研究についていろいろなことを教えてくださったり,生活態度などを注意してもらったりして面倒を見てもらいました.
これからも斎藤先生のことを忘れず,がんばっていきたいと思います.

B4 小川浩史

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 斎藤先生のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申しあげます。
 配属されて間もないこともあり、先生からは、日ごろ研究に関する指導より学校生活の指導を頂きました。しかし、一度だけ私の卒業研究に関して指導を受けた事があり、その時の内容は今でも貴重なアドバイスとしてノートしてあります。指導された時には、研究内容とは少し違う内容なのではと疑問に思っていましたが、研究が進むにつれてその内容の一つ一つが大きな助けとなりました。その事を実感する度に、斎藤先生の視点の鋭さに驚かされました。
 先生への感謝の気持ちは尽きる事がありません。先生の日ごろの教えを忘れず、努力していこうと思います。ありがとうございました。

B4 西川夏規

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 斎藤先生に公私にわたって御指導いただき,大変感謝しています.私達がいる部屋にきてくださって,様々な事柄において話をしていただいたことは,私の良い経験になっております.斎藤先生に卒業まで御指導いただけなかったことが,真に残念でなりません.謹んで御冥福をお祈り申し上げます.

B4 加治洋丞

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斎藤先生には、去年の4月からおよそ半年間の間、お世話になりました。主に学問の部分について、あれこれと面倒をみていただきました。当時は自分の勉強のことで手一杯で、斎藤先生自身がどんな研究をしているのかは知らなかったのですが、鳥脇先生や先輩方の話を聞くと、指導者としてだけではなく、研究者としても一流だったのだと、改めて尊敬の念を抱きます。心より、冥福をお祈りいたします。短い間でしたが、ご指導いただいたこと、大変感謝しています。

B4 濱野克俊

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研究室に配属されたばかりで何もわからない自分に、研究の進め方などを熱心にご指導していただきました。ありがとうございました。

B4 横山 耕一郎

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短い間でしたが、斎藤先生にはお忙しい中いろいろと面倒を見ていただきました。
頻繁に4年生のいる部屋を訪れ、質問に答えていただいたりして本当に感謝しています。
これからもご指導を仰ぎたかったのですが、今となってはそれもかなわず残念です。
斎藤先生のご冥福をお祈りしています。

B4 仁井本 将司

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 お亡くなりになる直前まで、元気なお姿だったので、訃報を聞いたときは本当に信じられませんでした。斎藤先生が亡くなられてから数ヶ月経った今も、細やかな指導をしてくださった先生の姿が思い起こされます。電気コースであった私が、初歩的な質問をしても丁寧に教えてくださいました。また勉学以外で楽しい話を聞かせてくださることもありました。半年余りという短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました。

B4 花木 美穂

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 私が鳥脇研究室に事務のパートとしてお世話になり始めてかれこれ9年になります。齋藤先生は助手になられていましたが、弟と同年齢でありいつも気さくに対応してくださるので、事務のこと以外でも何かあると205の部屋をのぞいたものです。研究の途中でも「なにか…?」(ありましたか)という感じでこちらに目をやり気にかけて下さいました(ただし、午前中は、起きてるかな?と少々心配しながらのぞいたものです)。
 数年前の話になりますが、ある方が「紹介したい人がいる」と齋藤先生にお話しされたことがありましたが、「今の気ままな生活が気に入っているということでプロフィールさえ見てもらえなかったのよ」とがっかりされていました。齋藤先生の生活時間は通常とは程遠く、「結婚されたら変われるのかしら?」と心配しながらも、「次は齋藤先生ですね」とお話ししていた矢先に逝ってしまわれ…残念です。きっと子煩悩になられていたであろう父親としてお話しされる顔も見てみたかったです。ご家族のことを大切にされている大変お優しいかたでした。

 今も、2階にいくと205の部屋をついのぞいてしまいます。「なにか…?」といつものように振り向く先生に逢えるようで。
 いろいろお世話になり有り難うございました。
   齋藤先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

                            

鳥脇研究室  蒲 文代


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斎藤さんへ

いままでいろいろとありがとうございました。
鳥脇研究室に勤めていたころ、とてもお世話になりました。
そして、私が退職したあとのお付き合いも楽しいものでした。

美術館にもよく一緒に行きましたね。
ご飯もよく食べに行きましたね。
スキーもテニスも一緒にしましたね。
何気ない時間でしたがとてもたくさんの楽しい時間でした。

海外出張のあとには必ず何百枚もの写真を見せてくれましたね。
斎藤さんは、一枚、一枚とても詳しく説明してくれ、まるで一緒にその場を歩いていたかのような気がしたものです。

今、突然の訃報にいまだ実感がわかず、途方にくれています。
私は今でも斎藤さんがカメラ片手に外国の街を楽しそうに歩いているような気がします。

昨年、私は結婚し新居に移りました。
新居のリビングには斎藤さんにもらったお土産がいつくか飾られています。
遊びに来る友人に斎藤さんの話をしています。
そして、お土産を見ながら、斎藤さんが口癖だった 「〜〜したら幸せだと思わない?」という言葉をふと思い出します。

斎藤さんほんとうにありがとうございました。
そして、ゆっくりと休んでくださいね。

伴枝里香

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私にとって、齋藤先生の思い出など語れるほど、長いおつきあいはさせていただ いていません。ただ、鳥脇研でお世話になって7ヶ月という短い間に垣間見た、齋藤先生のお人柄がうかがえるお話をしたいと思います。
 齋藤先生の第一印象は、『ちょっと、むずかしそうな方だなぁ。』でした。ご自分のデスクのある201には、ほとんど居ることはなく、何か用事があって探すときには苦労をしたものです。結局、プライベートでのお話をしたことは一度もないのですが、ある時、205へ書類を置きに行ったとき、のんびりと、しかもとてもおいしそうにはっさくか何かをほおばっておられるのを見て、ほっとした覚えがあります。またある時は、202で学生さんに対して真剣にアドバイス(注意?)をしている姿も拝見しました。その時感じたのは、昨今、社会に出ても、なかなか親身になって叱ってくれる上司はいないものです。その点、ここの学生さん達はこんなに親身になってくれる先生(上司)に恵まれて、幸せだなぁ、ということです。
 齋藤先生がいなくなって、2週間、一ヶ月・・・・とたつにつれ、どれだけ齋藤先生が多くの仕事や研究に関わっておられたか、と同時に、齋藤先生が逝ってしまわれたんだ、という実感が湧いてきました。
 本当に短い間しか関わることはできませんでしたが、心から齋藤先生のご冥福をお祈りいたします。

鳥脇研  田中弘美

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齋藤さんとは, PIXEL というサークル活動だけでのおつきあいでしたが, 常に冷静でいながら, 周りを楽しませてくれる会話で, いつも笑いが絶えませんでした. また, 24時間いつでも齋藤さんが大学にいらっしゃったということもあり, (研究室のメンバーでない私が言うのも何ですが)研究室・サークル両方のメンバーにとっての心の拠所になっていたよう気がします. そんな方がこんな早くに亡くなってしまったというのは,非常に残念です. いつまでも皆の心に残ることでしょう.

ご冥福をお祈り申し上げます.

牧村 顕 (財)京都高度技術研究所

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宇宙に旅立ってしまった、さいとーさんへ

さいとーさん、お元気ですか?
地球のみんなは元気です。
根尾に帰るっていうのは、実は宇宙に帰っているんでしょ?
と、やすがよく突っ込みを入れたら
他のことでは怒らないさいとーさんが
このことだけには異常に怒りましたよね?
やっぱり宇宙人だったんだ。。。
みんなにサヨナラも言わないで
こんなに早く旅立ってしまうなんてズルイです!

さいとーさんとの思い出は
ずーっと時間(とき)が止まったまま。
さいとーさんのお姿は
ずーっと38歳、年を取らないまま。。。

たくさんの思い出ありがとう。

他の惑星に行ってしまっても
どうかお元気で。

             ピクセルOG  川村泰世

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斎藤先生には,香川県産業技術センターの客員研究員に平成9年と10年の2年間就任して頂き,香川へも何度か足を運んで頂きました.斎藤先生が香川に来る当日になると必ず天候が崩れ,瀬戸大橋が通行止めになったり,電車が運休したりするので,「どうも香川との相性が良くないですね!」とこぼされていたのが思い出されます..
客員研究員として,実際に研究を指導しても頂いたのですが,思いもよらない視点から鮮やかに問題の本質を見抜いて,簡単な言葉でそれを私に理解させるという点で,本当に素晴らしい先生でした.しかも,非常に気楽に話せる雰囲気があったのでつい話が脱線することもあったのですが,それが先生というよりも先輩といった親しみを感じさせてくれました.これからもお付き合いして頂こうと思っていたのに,本当に残念です.
心から哀悼の意を表します.

香川県産業技術センター システム応用技術部門
濱田敏弘

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